日本のプロレス界は、現在正確な数を把握できないほど団体数が多い。かつて昭和20年代後半の創世記も、日本プロレス界は多団体だったが、力道山率いる日本プロレスに統一された。今日の画像は、その日本プロレス一団体時代のものである。懐古しよう。
時期としては、力道山の3回忌にあたる1965年ではないかと思われる。
場所は、力道山の墓がある池上本門寺だ。
力道山の墓地は今よりシンプルで、まだ墓石があるだけである。
日本プロレス一団体ということは、日本のプロレスラーは、すべて揃っていたということだ。
その後、昭和プロレス史に名を残すレスラーが並んでいる。
人によっては、「このレスラーとこのレスラーが同じ団体の頃があったのか」と、改めて感慨があるかもしれない。
……といった前置きはともかくとして、ここにいるレスラーたちのすべてがわかった人は、昭和プロレス、それも昭和40年代のプロレス通として胸を張れるだろう。
では、前列左からいってみよう。
米良明久。後の高千穂明久→グレート・ザ・カブキである。
この頃、サンダー杉山やグレート草津をいびったことは自ら認めている。
鈴木勝義。後のミスター鈴木→マティ鈴木である。
吉原功とともに日本プロレスを退団し、ヒロ・マツダと国際プロレスを旗揚げ。
吉原功とヒロ・マツダの関係が悪くなると、マティ鈴木も渡米してアメリカでプロレスを続けたが、途中、2年間、ジャイアント馬場の全日本プロレスな助っ人参戦している。
北沢幹之。高崎山猿吉、高崎山三吉、新海弘勝、魁勝司と名前を変えた。
ゴリゴリのアントニオ猪木派といわれたが、引退後はUWFに移った。
このブログでは、『喜劇駅前茶釜』で、ジャイアント馬場にボディスラムを食らったシーンをご紹介した。
平野愿一。アマレス(日本大学)出身の平野岩吉である。
今回のレスラー群の中では、もっとも正解者が少ない“難問”かもしれない。
アントニオ猪木の日本プロレス復帰と入れ替わるように、取り組みから名前が消えた。
大熊元司。こちらはもうおなじみである。
このブログでは、ジャイアント馬場の付き人としてご紹介した。
ジャイアント馬場の付き人といえば、その左となりもそうだ。
草津正武。後のグレート草津。
しかし、この人はレスラーとしても、付き人としても、フロントとしても評判は決して良くない。
ファンの側からすれば、“面白困った”トンパチであることは、むしろ愛すべき存在なのだが。
お馴染みの昭和プロレスラーの若き日の姿
では、後列をやはり左から順に見ていこう。
斎藤昌典→マサ斎藤。
現役時代のマサ斎藤は、アメリカ生活が長かったが、スタートは日本プロレスだった。
長沢日一→長沢秀幸。
日本プロレス生え抜きではないが、日本プロレス崩壊まで在籍した。
その後は、吉原功とのつながりで、国際プロレスのリングにも上がったようだ。
平井光明→ミツ・ヒライ。
ジャイアント馬場やアントニオ猪木よりも入門は早い。
長谷川淳三→芳の里淳三。
後の日本プロレス興行代表取締役社長。社長になってからもしばらくはリングに上っていた。
小鹿信也→小鹿雷蔵。後のグレート小鹿。
Youtubeの動画で確認すると、ジャイアント馬場の試合も、アントニオ猪木の試合もセコンドを務めている。
吉村道明。
この人がいたからこそ、日本プロレスは黄金時代を築けたといっても過言ではない。
豊登道春。
力道山の3回忌後、日本プロレスを追放される。
ジャイアント馬場。
昨日の会では、こんな激レア・アイテムも展示されていました。#ジャイアント馬場 pic.twitter.com/AgOvoARUnJ
— 市瀬英俊 (@gbtsubame) 2018年7月19日
今回はとくに説明の必要はないだろう。
ユセフ・トルコ。
日本プロレス時代の大試合のレフェリーといえば、沖識名かユセフ・トルコだった。
九州山義雄。
日本プロレス崩壊後、大木金太郎が新日本プロレスでアントニオ猪木と戦ったときに姿を見せていた。
遠藤幸吉。
日本プロレスの経営陣の一人だが、この人の評判は最悪である。
しかし、Youtube動画に残る“迷解説”は、ファンには“面白困った”解説として楽しまれている。
木村政雄→ラッシャー木村。
この後、成り行きで東京プロレスほか、多くの団体を経験するが、その人の良さを考えると、金網デスマッチの鬼の形相が哀しく思えてくる。
上田裕司→上田馬之助。
人格者のようにいわれるが、アントニオ猪木除名事件におけるふるまいや、国際プロレスから新日本プロレスへの移り方など、そうとは思えない行動もある。
本間和夫。
3年前の2014年に亡くなったことを、グレート小鹿が自分のブログで知らせている。
田中政克→田中忠治。
豊登道春と行動をともにして、引退時は国際プロレスだった。
白いトランクスと俊敏な動きは、寺西勇のメンターであることがわかる。
杉山恒治→サンダー杉山。
この頃は、すでに退団して渡米の計画を立てていたのかもしれない。
なお、アントニオ猪木は、この時期渡米していた。
さて、あなたは何人わかったかな?
コメント