『秘話ー「ラッシャー木村」と「木村政雄」~次男が語る国際プロレス崩壊後の28年9ヶ月』は『Gスピリッツ46』(辰巳出版)の記事である。特集「1981年8月9日以降の国際プロレス」では、鬼籍に入った本人に代わって次男の木村宏氏が新事実を語っている。
ラッシャー木村のプロレス人生を振り返る
ラッシャー木村(1941年6月30日~2010年5月24日)の命日である。
来年で13回忌だから、早いものである。
高校生の時、宮城野部屋へ稽古見物に行った際、ちゃんこをご馳走になった義理で入門を断れなくなリ、夢であるプロレスラーになるための基礎体力作りとして、高校を中退して1958年に大相撲の宮城野部屋に入門。
ちゃんこで学業中退とは、もったいなさすぎるが、いかにもラッシャー木村らしい。
1964年に待望の日本プロレスに入門するも、付き人をしていた豊登の誘いで東京プロレスの旗揚げに参加。
崩壊後は国際プロレスに入団して、ストロング小林とともにリングネームを公募してラッシャー木村に。
TBS時代は、サンダー杉山とのTWWA世界タッグ選手権、グレート草津とのヨーロッパタッグ選手権など、タッグプレーヤーとしてプッシュされていたが、それがシングルプレーヤーとして注目されたのは、日本で初めての金網デスマッチを行ったこと。
しかし、TBSは反響からテレビ放送を見合わせたため、ストロング小林がエースという路線は変わらず。
それが、ストロング小林の離脱と、TBS⇒東京12チャンネルに放送局が移ってからは、短期間のマイティ井上時代を経て、「金網デスマッチの鬼」として、いよいよラッシャー木村の時代に。
毎試合のように血だらけ傷だらけになって団体を背負っていたものの、国際プロレスは1981年に崩壊。
新日本プロレスに移るも、アントニオ猪木を挑発すべきリングに上がり、なんと「こんばんは」と普通に挨拶して観客の失笑を買い、以後「コンバンワ事件」はファンの間で語り草となってしまった。
アントニオ猪木に完敗して賞味期限が切れると、東京プロレスと新日本プロレス時代に世話になった新間寿の誘いで新団体UWFへ移籍。
1984年にはジャイアント馬場の全日本プロレスのリングに上がると、“笑われマイク”を逆手に取り、試合後に観客を笑わせるマイクパフォーマンスで前座試合の人気レスラーに。
しかし、ラッシャー木村の本当の姿は、あくまで「こんばんは」の方であり、マイクパフォーマンスは作られたキャラクターであった。
2000年にはプロレスリング・ノアに7度目の移籍。
2003年に体調不良により長期欠場に入り、翌2004年に引退した。
プロレス以外では、『三宅裕司のいかすバンド天国』(1989年2月11日~1990年12月29日、TBS)というアマチュアバンドのオーディション番組で、「耐えて、燃えろ」というワンパターンのコメントでお馴染みだった審査員をつとめている。
『焼きそば鉄板麺』(シマダヤ)のテレビCMでは、若手レスラー(浅子覚、井上雅央)を従えて何やらゴニョゴニョ言いながら焼きそばを焼き、最後に「鉄板麺!」とハスキーボイスで絶叫していた。
そのラッシャー木村は、2010年に腎不全による誤嚥性肺炎のため亡くなった。
すでに、プロレスマニアは読了していると思われるが、『Gスピリッツ46』(辰巳出版)の特集「1981年8月9日以降の国際プロレス」では、鬼籍に入った本人に代わって次男の木村宏氏がインタビューを受けて新事実を語っている。
新日本プロレスに行ったのはお金のため
「実は、僕はラッシャー木村の実の子ではありません。父と母の純子が知り合ったのは、フランスのパリなんです」
ラッシャー木村は、ヨーロッパ遠征中に純子夫人と知り合い、2人の子どもごと引き取って結婚したという。
つまり、ラッシャー木村には実子はいなかったことになる。
たぶん、自分の子を作ったら、宏氏ら連れ子がやりにくいのではないか、というラッシャー木村なりの気遣いのような気がする。
国際プロレスは、東京12チャンネルでは毎週テレビ中継されていた。
1回の興行で2回収録だったので、ラッシャー木村の登場は隔週ではあったが、それでもゴールデンタイムで放送されていた。
しかし、そうした華やかな立場とは裏腹に、「(国際プロレス時代は金銭的には)大変でしたよ」と宏氏は告白している。
宏氏は、自分でアルバイトしてお金を稼ぎ、さもラッシャー木村からたくさんの小遣いをもらっているということにして、ラッシャー木村の顔を立てていたという。
「団体が潰れる2年くらい前から、吉原(功)社長が浦和のご自宅を抵当に入れて、“5万できたから”“10万できたから”と親父を素通りして母に生活費として…。それが子供心に辛かったですね」
国際プロレスが崩壊後、ジャイアント馬場の全日本プロレスではなく、アントニオ猪木の新日本プロレスに。
「親父は馬場さんか猪木さんかとなったら…馬場さんなんですよ、本当は 」
にもかかわらず、アントニオ猪木のところに行ったのは、新日本プロレスから提示されたトレードマネーが高かったからだと言う。
そして、ラッシャー木村は、そのお金をそっくり国際プロレスの吉原功社長に渡した。
新日本プロレスでは悪役だったため、自宅に生卵をぶつけられ、飼い犬がストレスで死んでしまうほど嫌がらせも受けたそうだが、ふだんの報酬もそれまでとは桁違いで、家族は少し余裕のある暮らしができたという。
全日本プロレス時代は、ファンからも暖かく迎えられ、「お金の心配をする必要もなく、心地よくいさせてくれた」というが、その後、ノアに移り、ラッシャー木村が死線を彷徨っているときに、全日本プロレスが団体保険を解約したいからハンコをくれと言ってきたと憤慨している。
もちろん、そのときの「全日本プロレス」というのは、ジャイアント馬場が亡くなってから10年以上たってのことであり、全日本プロレスを引き継いだ武藤敬司が経営難に陥ったためである。
以前、桜田一男が、全日本プロレス時代に厚生年金を払ってもらったことを感謝する記事を書いたが、

団体保険も入っていたというのは、これまた新事実である。
みんなして、ジャイアント馬場はケチだというが、社保完の団体なんて、当時からなかっただろう。
しかし、武藤敬司はそれも食いつぶしてしまったわけだ。
いや、ラッシャー木村がやめてから10年も経っているわけだから、そもそも保険はとっとと解約スべきものである。
それを10年経って「見直す」というのは、プロレス団体がいかにいい加減な経営かということか。
いずれにしても、ラッシャー木村というのは、人がよく自己表現が苦手な一方、お金については比較的割り切った人だったのかもしれません。
といっても、それは守銭奴ということではなく、世話になった吉原功社長や、苦労をかけた家族の生活のことを考えた、という意味である。
詳しくは、同誌をご覧いただきたい。
改めて、ラッシャー木村の生前のご遺徳、お偲び申し上げます。
以上、『秘話ー「ラッシャー木村」と「木村政雄」~次男が語る国際プロレス崩壊後の28年9ヶ月』は『Gスピリッツ46』(辰巳出版)の記事、でした。
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