アブドーラ・ザ・ブッチャーが第13回ワールドリーグ戦決勝戦に出場したときの真相を語ったとされる記述が興味深い件

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アブドーラ・ザ・ブッチャーが第13回ワールドリーグ戦決勝戦に出場したときその真相を語ったとされる記述が興味深い件

アブドーラ・ザ・ブッチャーの引退セレモニーが、2019年2月19日に両国国技館の『ジャイアント馬場没20年追善興行~王者の魂~』において行われた。“黒い呪術師”といえばあの第13回ワールドリーグ戦決勝戦に出場。その真相を語ったとされている。

混沌とした第13回ワールドリーグ優勝戦

BIの緊張関係が頂点に達した第13回ワールドリーグ戦

第13回ワールドリーグ戦(1971年)は日本プロレス史上、抜け落ちてはならない1頁である。

簡単に振り返ってみると、その2年前の1968年、アントニオ猪木が第11回ワールドリーグに優勝し、ジャイアント馬場の4連覇を阻止したところから話が始まる。

その時期に、アントニオ猪木、大木金太郎を中心とするNETのテレビ中継が決まり、卍固めという技名を公募するなど、ジャイアント馬場に次ぐ“若獅子”から、馬場と対等のエースに引き上げる機運が高まった。

1970年の第12回ワールドリーグ戦は、ジャイアント馬場が雪辱したが、その決勝戦の相手であるドン・レオ・ジョナサンにアントニオ猪木をブレーンバスターで完勝させて顔を立てた。

同年秋に始まったNWAタッグリーグでは、星野勘太郎とのコンビで優勝。

そして、1969年春には、ユナイテッドナショナル選手権をロサンゼルスでジョン・トロスから奪取。

日本のリングでは伝統があっても、お手盛りタイトルであるインターナショナル選手権とは違い、れっきとした“本場アメリカ”から日本に持ち帰ったタイトルである。

ずっと、ジャイアント馬場の後塵を拝してきたアントニオ猪木が、明らかにジャイアント馬場以上の扱いを受けてツイントップに押し上げられて開催されたのが、第13回ワールドリーグ戦だった。

原康史の『激闘・馬場と猪木』によれば、移動中の日本陣営もぴりぴりムードで、上田馬之助、山本小鉄らはアントニオ猪木派、ミツ・ヒライ、グレート小鹿らはジャイアント馬場派、星野勘太郎は中立などと書かれている。

疑惑の姫路大会判定で四者の決定戦へ

結論から述べると、第13回ワールドリーグ戦は、ジャイアント馬場対キラー・カール・コックスの決勝戦が予定されていたと確信している。

なぜなら、大会前、東京スポーツでは、キラー・カール・コックスが「俺は日本陣営は猪木がでてくると思う」と言い、アブドーラ・ザ・ブッチャーが「俺は馬場だと思う」と返して喧嘩になり、ザ・デストロイヤーが仲裁したという記事が出た。

もちろん、それもリーグ戦をもり立てる「物語」なのだが、とくにキラー・カール・コックスを“ジャイアント馬場の敵”として印象づける意味もあったと解している。

さらに、開幕戦の予選でジャイアント馬場は、あろうことか、そのキラー・カール・コックスに敗れてしまった。

このままでは、第11回ワールドリーグ戦開幕戦で、ジャイアント馬場がゴリラ・モンスーンに敗れて結局優勝できなかった二の舞ではないか、と心配させる効果があった。

が、どうも優勝者は最初に負けてリーグ戦を盛り上げるというのは、新日本プロレスや全日本プロレスでも何度も使われてきたパターンであり、第11回ワールドリーグ戦開幕戦でも、優勝したアントニオ猪木もボボ・ブラジルに敗れていたのだ。

そして、外国人レスラーは、過去の準優勝者が集まった第10回の記念大会をのぞくと、2度同じレスラーが決勝戦に出てこないという不文律もあった。

その伝でいけば、第8回の準優勝者であったザ・デストロイヤーの決勝進出はないと解せた。

ところが、案に相違して、決勝戦は、ジャイアント馬場、アントニオ猪木、ザ・デストロイヤー、アブドーラ・ザ・ブッチャーの四者が出場となった。

決勝の前々日の姫路大会で、いったんはアントニオ猪木がコックスにフォール負けしながら、裁定が覆り試合続行でアントニオ猪木が勝ってジャイアント馬場と同点になるという不可解な経緯で、キラー・カール・コックスは脱落していたのだ。

キラー・カール・コックスが勝っていれば、予定通り(?)ジャイアント馬場とキラー・カール・コックスの決勝戦だった。

裁定をひっくりかえしたのは、猪木派だったレフェリーのユセフ・トルコであった。

その試合では、思わずジャイアント馬場も控室からでてきて、事の成り行きを見つめていたという。

「ジャイアント馬場かアントニオ猪木か」を煽ってきた同大会のねらいを象徴するような展開でファンの興奮は最高潮に達した。

そんな緊張感のある中で、最終戦に突入するのだが、門茂男著『門茂男のザ・プロレス365』という本には、第13回ワールドリーグ戦についてブッチャーが門茂男の問いに答えているとする興味深いインタビューがある。

表現の中には、「ブッチャーがこんなこというか?」と思えるような門茂男テイストが多分に含まれているが、門茂男の見聞や推理を、ブッチャーの発言にプラスアルファしたのかもしれないし、何より当時の状況に辻褄はあっているので、今回改めて引用させていただきたい。

門茂男氏が記した「アブドーラ・ザ・ブッチャーの激白」

アントニオは青二才の小僧ッ子っだ

門「プロレス界の”鉄の綻”を無視して、本音を語ってくれるとは嬉しい話だ。

 その気持ちが変わらないうちに昭和四十六年の五月、大阪で行なわれた日本プロレスの第十三回のワールド・リーグ戦のときのことを是非聞かせてくれ」

A「アントニオが優勝したくてトルコと組んでいろいろと画策したときのことだろう。

 俺は、あのときのことは一生忘れることがない。どこからでも聞けよ」

 (アブドーラは、こう言うや巨体をゆすって坐り直した)

門「大阪のファイナル・マッチの前日に、兵庫県姫路市でキラー・カール・コックスと猪木が闘って、猪木がコックスにフォールされたのを覚えているか」

A「覚えているとも、コックスが勝てば、コックスと俺とザ・デストロイヤーの三人が外人勢のなかでは同じ勝率になる。日本勢の代表はアントニオがコックスに破れて脱落して、ジャイアント(馬場)が決定というシーンだった。

 コックスがアントニオをフォールしたとき、俺は外人勢三人とジャイアント・バアバの四人が抽選で準決勝戦をやり、決勝進出者を決めるものとばかり思っていた。

 ところがどうだい。誰の目にも一〇〇パーセント、いや一二〇パーセント完全に負けていたアントニオが”俺は負けてはいない。レフェリーがカウントしているとき、俺の足はロープの最下段にかかっていた”というアピールをレフェリーのトルコにしたら、ろくにその情景を見ていなかったのにトルコはあっさりこれを認めて、アントニオとコックスの再試合をやらせた。阿呆くさくなって戦意を喪失したコックスはアントニオのなすがままになって、自ら負けていった!

 アントニオがコックスに勝ったので、コックスは優勝戦線から脱落、勝ったアントニオはバアバと並んだ」

門「よく覚えてるな。その通りだ」

A「俺は大阪に行ったら、オキ・シキナから”ユーはジャイアント馬場と闘うことが決まった。準決勝戦の第一試合はデスト(ロイヤー)とアントニオ猪木だ。このデストとアントニオ猪木戦のレフェリーはユセフ・トルコだ。ユーとバアバとのマッチほ、この俺がレフェリソグをする”

 こう告げられた。

 大阪の新大阪ホテルにジャパン・プロレスのプレジデントのヨシノサトが、突如、訪ねて来た。

 ”ユーやデストロイヤーはグレーテストなレスラーだが、ユーたちがW・リーグ戦に優勝してしまったら、ジャパン・レスラーの面目はまる潰れになってしまう”

 ヨシノサトは下手クソなイングリッシュでこう言った。

 俺はいつも葉巻かなんかを唾えてふんぞり返っているヨシノサトが、こうやってわざわざ俺のところまで来て、こうやって機嫌をとっているのは、俺にバアバに負けてくれ、と頼み込みに来たに違いない、と直感した」

門「あのとき、芳の里は買収しにかかったはずだ」

A「ジャスト・モーメント……マネーの話はちょいと待てよ。

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 あのときほ、いくつかのケースが考えられた。準決勝の第二試合で、俺がバアバに、ただ負ければそれで片がつくというような簡単なことでほなかった」

門「というと」

A「そうだろうが、今までW・リーグ戦は十二回もずーっと日本人・レスラーがチャンピオンになっているだろう。

 常に日本・プロレス界のナンバー・ワン・レスラーが就いている過去がある。

 それなのに、準決勝戦の第一試合でナンバー・ツーのアントニオはトルコの力を借りて、決勝に進出して、ナンバー・ワンのバアバと”セメント・マッチ”で闘い、自分の方が、バアバより断然強いというところをみんなに見せたがっていた。

 俺はアントニオという男ほ、まだプロレスのなんたるかを知らない、青二才の小僧ッ子だ、と思ったぜ。

 どこの試合会場でもバアバの人気の方が、アントニオの倍も三倍もあるのを彼自身が判らぬはずもないのに……。

 アントニオは今でもそうだが、すぐにカッコをつけて”セメント・マッチで来い”とか”ピストル(真剣勝負)”で勝負をつけようではないかといった言葉をすぐに弄する。

 アントニオがバアバに勝ちたければ、アントニオとバアバで決着をつければいいんで、何も、この俺やデストロイヤーまで巻き込む必要はないんだ。そこらあたりが、アントニオがプロフェッショナルな男ではないと、言われるゆえんだ」

門「おまえのアントニオ論はその辺で結構だ」

A「話がとんだところにいってしまった。あの日の話に戻ろう。

実は馬場が負ける筋書きも用意されていた

 準決勝の第一試合でアントニオがトルコの力を借りて勝てば、第二試合ではバアバは反則負けで決勝戦には進出しないことになっていた。

 これは、時と場所は違っていたが、ヨシノサトとオキ・シキナの両方から頼まれた話だ。

 俺はこの二人に言ってやった。ラフ・ファイト専門のこの俺が、なんでベビー・フェース(善玉)のバアバに反則勝ちをさせてやらねばならんのだ、と。

 ホテルのマイ・ルームに来たヨシノサトは、こんなことも言った。

 ”猪木が負けてデストロイヤーが決勝に出て来たら、第二試合でユーは馬場をウーンと強く見せながら、完敗してくれ”と。

 猿まわしの猿じゃああるまいし、アブドーラ・ブリチャーともあろうこの俺が、なんで三流レスラーあがりのヨシノサトなんかの言う通りにならねはならんのだ。俺は心の底から情けなくなってしまった。

 まだ闘ってもいないのに、俺はアントニオがデストロイヤーに勝ったときだけ、決勝戦に進行する権利を与えられたわけだ。

 俺はオキ・シキナとヨシノサトに聞いてやったネ。

 アントニオと決勝で顔を合わせたら、ノー・スピーキングでファイトしていいんだな、と。

 ”猪木がデストに勝ってしまったら、あの野郎に優勝させるのは腹が立つが、あのブラジルからの出稼ぎ野郎の猪木もジャバン・レスラーの端くれ、あんたにほ悪いが、あんたは猪木には負けて貰うより方法はない”

 ヨシノサトは、こんな恥知らずなことを俺にくどくどと喋りまくった。

 オキ・シキナは”芳の里の言う通りのことをやっていたら、これから先、ユーが希望すれば、何回、いや、何十回だって、ジャパンのリングに上げて貰える。ファイト・マネーだって、ワン・ウイーク、七百ドル(二五・ニ万円)ぐらいにはアップしてくれるほず。それに今回のレスリング・ビジネスをパーフェクトに演じれば、ジャバン・プロレスからユーには五百ドル(十八万円)ぐらいのスペシャル・ボーナスが出るだろう”

 このような言葉で、俺をかき口説いた。

 俺はこのオキ・シキナに言ってやった。

 反則勝ちであろうが、なんであろうが、ジャパン・プロレスのナンバー・ワンのバアバに勝ったなら、ファイナル・マッチで、ナンバー・ツーのアントニオなんかにムザムザと負けるわけにはいかん、誰が見てもさして強くない男に負けるのは大嫌いな性分だ。オレはブッチャーさまだ、と大見得を切ってやった」

門「おまえがそのような大見得を切っていたとき、デストロイヤーは芳の里から、猪木をKOする約束で、千ドル(二十六万円)という金をスペシャル・ボーナスとして受け取っていたんだな」

A「それは知っていたさ。俺の倍も三倍ものファイト・マネーを取っていたデストロイヤーが、アントニオみたいな小僧をひねるだけのことで、千ドルプラス。この俺もまともなファイトなら、あんな鳥ガラみたいなバアバをすぐにフォールできるのに、デストロイヤーが勝ち残ったら、俺は、バアバの餌食になってリングで死んでしまえ、とジャパン・プロレスのギャングたちは口を揃えて言いやがった。

 俺からプライドも自主性も全部もぎ取ってしまう話をしながら、俺には余計なマネーをまるっきり使う気を見せない。自分が働いた分のマネーをガッチリ取らねば、プロフェッショナルな男とは言えんだろう。

 このフィロソフィ(哲学)はあのときも現在も俺の頭から離れていない」

ブッチャー「インタビュー」まとめ

お断りしておくと、門茂男氏はジャイアント馬場のこともアントニオ猪木のこともよく書かなかったが、とくに全日本プロレス設立以降のジャイアント馬場に対しては、ビジネス上のトラブルがあり、レスラーとしてもプロモーターとしてもジャイアント馬場をこきおろすことしかしなくなった。

その門茂男氏の本で、このインタビューは、少なくとも第13回ワールドリーグの時点では「人気の馬場」であり、かつレスラーとしての格もナンバーワンであることを示しており、ジャイアント馬場がエースであったことがリアリティをもって伝わってくる。

ミスター高橋も後年、その当時、ジャイアント馬場とアントニオ猪木を戦わせていたら、自分なら猪木先勝で結果は馬場の2勝1敗にしただろうと述べている。

おそらくそれが、常識的な筋書きであろう。

さすれば、第11回ワールドリーグでアントニオ猪木が優勝したから、第12回と第13回でジャイアント馬場が優勝するのは、順当な結果だったのではないかと思う。

ちなみに、“宿敵”であるはずのキラー・カール・コックスは、ジャイアント馬場が優勝を決めて徳光和夫のインタビューを受けている最中握手に来たが、それまで表情をこわばらせていたジャイアント馬場がキラー・カール・コックスにニコっと微笑み返したシーンは今も忘れられない。

コックスが握手を求め

馬場がニコリ

アントニオ猪木は、その決勝戦の日、ジャイアント馬場に挑戦をぶち上げたが、実現はしな
かった。

いずれにしても、虚実ないまぜのインサイド・ストーリーとして、当時が気になるファンには興味深く読めるインタビューである。

以上、アブドーラ・ザ・ブッチャーが第13回ワールドリーグ戦決勝戦に出場したときその真相を語ったとされる記述が興味深い件、でした。

門茂男のザ・プロレス365〈part 1〉 (1981年)
門茂男のザ・プロレス365〈part 1〉 (1981年)

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