『史論ー力道山道場三羽烏』(辰巳出版)はジャイアント馬場、大木金太郎、アントニオ猪木のアメリカ武者修行時代俯瞰

『史論ー力道山道場三羽烏』(辰巳出版)はジャイアント馬場、大木金太郎、アントニオ猪木のアメリカ武者修行時代俯瞰

『史論ー力道山道場三羽烏』(辰巳出版)を読了した。ジャイアント馬場、大木金太郎、アントニオ猪木という力道山道場三羽烏のアメリカ「武者修行」時代にスポットを当てて、誰が力道山の真の後継者だったのかを考えさせる書籍である。

力道山道場三羽烏とは

プロレスファンにとっては、今更説明の必要もないことだが、大木金太郎、ジャイアント馬場、アントニオ猪木といえば、力道山道場三羽烏といわれたレスラーたちである。

ジャイアント馬場とアントニオ猪木は、1960年4月入門だが、大木金太郎はそれよりも1年早い入門なので、三羽烏と言っても、全員が同期というわけではない。

いずれにしても、そういわれるようになったのは、3人が日本プロレスでチャンピオンベルトを戴冠してからの話で、入門時からそういわれたわけではないようである。

ただ、同じぐらいか、少し先輩や後輩だったレスラーたち、たとえば、田中忠治、ミツ・ヒライ、ミスター林、上田馬之助、マシオ駒、星野勘太郎、平野岩吉、本間和夫、大熊元司、松岡厳鉄、グレート小鹿、山本小鉄らに比べると、3人は明らかによい扱いを受けている。

ジャイアント馬場は、1年でアメリカに出発したし、大木金太郎とアントニオ猪木は、第4回ワールドリーグ戦に、先輩方をさしおいて抜擢されている。

とくに、ジャイアント馬場とアントニオ猪木は、東京スポーツにおける第2回ワールドリーグ戦の観戦記が本書に引用されているが、数ある「若手レスラー」の中で、入門3ヶ月目のレスラーの観戦コメントが出るというのは異例なことである。

その3人の「武者修行」について、本書は当時の戦績込みで述べられているのだ。

デビュー戦はアントニオ猪木の言う通り「差別」だったのか

まあ、プロレスマニアなら、誰かの説明より、自分自身で目を皿のようにして熟読するので、ネタバレ的なあらすじは不要だが、私がオモシロイと思った点、改めて気づいた点を書こう。

まず、アントニオ猪木の「デビューから不遇だった」論が論破されていること(笑)

アントニオ猪木は、『当然プロレスの味方です』という村松友視氏の本で、デビュー戦のマッチメークに対する不満を述べていた。

曰く、ジャイアント馬場には、誰でも勝てる桂浜(田中米太郎)をあてて、自分(アントニオ猪木)には、絶対勝てない先輩の大木金太郎をあてて差をつけたと。

しかし、本書によると、桂浜は当時、序列的には決して最弱ではなく、一応大木金太郎には勝っていた。

そして、大木金太郎は、実はそのアントニオ猪木戦が初勝利だったという。

つまり、マッチメークは、アントニオ猪木の言い分とは真逆で、むしろジャイアント馬場の方に、より「格上」のレスラーをぶつけていたことになる。

もちろん、桂浜には脅威も伸びしろもなく、一方の大木金太郎は、後輩に負けてなるものかと初勝利目指して必死に向かってくることはわかるので、大木金太郎のほうが厄介な対戦相手に見えるというのはわからないではない。

しかし、そうであったとしても、アントニオ猪木が言う「絶対勝てない大木金太郎」というのは、当時未勝利の対戦相手に対して、ちょっとばかり盛った言い方ではないだろうか。

レスラーの言うことを真に受けるファンタジーも楽しいが、冷静に聞けば、すでにこんなところからもセルフプロデュースが始まっているんだな、ということがわかった。

まあ、第4回ワールドリーグ戦抜擢の事実からも、アントニオ猪木は自分が言うほど「冷遇」されてはいなかったことは以前からわかってたけどね。

ちなみに、『こんなプロレス知ってるかい』(ユセフ・トルコ著、KKキングセラーズ)によると、2人のデビュー戦は2試合とも「セメント」だったそうだ。

こんなプロレス知ってるかい―ドーンと真相! デスマッチ (キングブックス) - ユセフ・トルコ
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デビュー時はレスラーマインドが明らかに馬場>猪木だった

ジャイアント馬場とアントニオ猪木は、東京スポーツにおける第2回ワールドリーグ戦の観戦記が本書に引用されている。

少し長くなるが、引用しよう。

猪木 ワールドリーグ戦だけあってさすがに世界のモサがせいぞろいしたね。
馬場 すごいね。第一回のときもオルテガなどずい分強いのが来たけど、今度の方が全体的に充実したみたいだ。とくに今度の場合自分がプロレス界に入門したせいか興味本位でなく、職業ということを意識して観戦するので、ただばく然とは見たくない。
猪木 ボクはこんなにすばらしいメンバーが一堂にそろった試合を見るのは初めてだから、ただすごいの一語につきる。
(ミラー対吉村戦が始まる)
猪木 吉村さんの空手は力さんゆずりだね。
馬場 相当威力があるよ。”こぶし打ちは平気だ”といっていたミラーもグロッキーだね。しかしミラーはうまいね。豊富な技の持ち主だ。
猪木 あれだけスピーディーに動くとプロレスもきれいだね。反則はつきものだが完全にレフェリーの目をかすめるところなんかうまい。だがミラーの岩石落としは見事だった。二回続けて三回目はヒザで背割りをくれて決めちゃった。
馬場 モンタナとバロアは愉快だった。モンタナってのはあんなに太っていても受け身がうまいし動きも早い。
猪木 まるでゴムまりみたい。あの体重(158.9キロ)でよく柔軟な受け身ができるものだ。
馬場 モンタナはヒゲでずい分そんしているな。
猪木 ヒゲが彼のトレードマークなんだからそるわりにはいかないしね。それ よりリソワスキーのあばれ方はすごかったね。ブラジルでもリング外でやることはあるがイスはぶつけない。
馬場 日本じゃたまにあるよ。まともに食らってはのびちまう。
猪木 東郷さんの頭は堅いからな。力の入った試合はノメリーニとマイヤースだったね。オーソドックスながら見ごたえがあった。なに一つムダなく反則もない。笑わせるどころか興奮しちゃった。
馬場 あんなきれいな試合は初めて。
猪木 プロレスのダイゴ味はこの試合で十分味わえた。こんな熱戦を見たのは生まれて初めて。ボクはますますプロレスラーとしての生きがいを感じた。タッグマッチだがやはり外人側はズルいね。
馬場 まともにやったらやはり力さんにはかなわないよ。しかしオートンは意外に乱暴者だ。この分だとこれからのリーグ戦は相当荒れそうだ。
当時の「馬場正平」や「猪木寛至」が、はたして「力さん」と言ったのかどうかは怪しいが、おおむね本人談は事実なのだろう。

それによると、ジャイアント馬場はプロレスを職業としてとらえ、解説者並みの分析と論評を行っていることに改めて驚かされる。

つまり、プロレスがなんたるかを、すでにこの時点で馬場正平は把握しているのだ。

一方のアントニオ猪木は、入門したての若者という感じがあらわれている。

本書では、「猪木は馬場が切り出した言葉を受けるのに精一杯」と書かれているが、正直、同時期入門としてこのコメントを比べては、猪木寛至少年には気の毒ではないだろうか。

といっても、これをもって、プロレスラーとしては、ジャイアント馬場>アントニオ猪木、だと言いたいわけではない。

プロレス史的には、BIなどと並び称しているが、2人のプロレスラーとしての始まりも考え方も全盛期も違うことが象徴的にあらわれている観戦記だと私は感じたのだ。

おそらくは、ジャイアント馬場のプロレス観はすでにこの時期、はやくもおおむね完成した地固めの段階に入っており、アメリカ「武者修行」はその結実の時期だったのではないかと思われる。

一方、アントニオ猪木は、未知数なまま日本でしばらく苦労し、まさにアメリカは真の「武者修行」の場だったんだろうなということが本書で改めてわかった。

ジャイアント馬場にとって「修行」といえたのか

では、本題のアメリカ武者修行だが、結論から述べると、ジャイアント馬場はもはや「修行」ではなく、すでに完成したトップレスラーとして輝かしいマーケットを渡り歩いた、その時期こそがレスラー生活の全盛、今風に言えばハイライトという位置づけで良いのではないかと思う。

プロ野球出身であることから、見せるスポーツ選手のマインドと身体能力がすでに備わっていたために、改めてレスリングを勉強しなくても「カネのとれるレスラー」として使えたからである。

もちろん、フレッド・アトキンスの教えを受け、プロレスの枠を超えた心得はあったと思われるが、残念ながらアントニオ猪木ら他のレスラーほど、その点に興味がなかったように思う。

フレッドアトキンスとは、信頼関係があったようだが、日本プロレス時代なら、「別にレスラーとして自分より稼げていないカール・ゴッチに教わらなくても、俺は今のままでトップレスラーだからいいじゃん。なんか文句ある」という感じだ。

「ジャイアント馬場」さえ演じていれば、レインメーカーになれるあまりに華々しいアメリカサーキットは、逆にレスラーとしてだけでなく、プロモーターとしても、勉強する機会を失っていることは、元付き人の佐藤昭夫さんが『Gスピリッツ』48号のインタビューで見破っている。

ジャイアント馬場の独立に追従しようとした佐藤昭夫に、「ステーキ食って葉巻を吸うしかノウのない男に何ができる」という捨て台詞を投げかけられたという。

Gスピリッツ Vol.48 (タツミムック)
Gスピリッツ Vol.48 (タツミムック)

きっと、選手会長として、役員として、会議で何も有意義な提案ができなかったことを、当時のダラ幹の誰かが言ったのだろう。

よく、ジャイアント馬場の身体能力とインサイドワークは、アントニオ猪木並みの野心と練習量さえあったら一人勝ちだったろうと惜しまれる意見もあるが、それはもう、前出のインタビューの時点でありえなかったことだと思う。

「強くなる」ためのトレーニングをするぐらいなら、芳の里と麻雀をやった方がいい、という職業的処世術は、ジャイアント馬場が練習嫌いで怠けているというより、どうしたら仕事がしやすくなるか、ということを考えての判断であろう。

ジャイアント馬場にとってプロレスというのは、最初から「強くなる」ではなく、「今の自分で稼ぐ」という価値観が前提にあったのではないだろうか。

その意味では、むしろ1964年に帰国後のジャイアント馬場は、アメリカ時代の「余録」でやっていたのではないか、という気さえする。

だから、本人が言っていたとされる「38歳引退」というのは、自分の「余録」の賞味期限を考えた、かなり賢明な人生設計だったと思われる。

余談だが、全日本プロレスを旗揚げ後も、人脈で豪華外人を招聘といわれたが、そもそもトップスター(しか経験していなかった)ジャイアント馬場の興行手法は、オールスターでドリームマッチを行う、というカード編成しかノウがなかった。

そして、昭和の古き良きテリトリー制のプロレスは、実はジャイアント馬場が全日本プロレスを旗揚げした頃はすでに斜陽化が始まっており、豪華外人を呼ぶ人脈というより、かつて自分を引き上げてくれたいにしえの名レスラーを食わせてやるため恩返しに招聘した、という面もあったのではないかと改めて思った。

一方、アントニオ猪木は、サーキットしたテリトリーも、ジャイアント馬場に比べると本書が言うところ「裏街道」であり、ベルトは取っているのに、ジャイアント馬場ほど稼いでもおらず、当時の現地報道の証言でも、人気の面でジャイアント馬場に劣っていた。

また、プロレスの枠を超えたことをして信用を失い、しばらく干されてしまった苦い経験があったことも本書で書かれている。

しかし、寂れたプロモーションで苦労したことで、ローコスト(報酬の安い無名外人)で運営する団体経営の手法を覚え、「強くなる」ことを純粋に考えレスリングを貪欲に追求し、いわゆるストロングスタイルという日本で受けるレスリングスタイルも身につけることができたのではないかと思う。

その意味では、アントニオ猪木こそ、アメリカ「武者修行」といえる艱難辛苦を経験したといえるのではないだろうか。

とにかく目先の欲に走った大木金太郎

BIに関する話が続いてしまったが、本書の真ん中は、大木金太郎について述べられている。

大木金太郎は、キム・ドクからもカタいレスラーといわれているが、まさにそれを象徴する「武者修行」時代であることがわかる。


大木金太郎は、武者修行を2度も自分の都合で無断帰国しているのだ。

WWA世界タッグ選手権までとらせてもらったのに、1964年にたった4ヶ月で無断帰国。

なぜか、お咎めらしきものもなく、第6回ワールドリーグ戦に参戦した。

同年9月に再渡米したものの、またもや9ヶ月で無断帰国している。

この間には、日本プロレスと絶縁したグレート東郷のブッキングで、ルー・テーズのNWA世界ヘビー級選手権に挑戦。

セメントを仕掛けて逆に大怪我をさせられてしまった。

グレート東郷との接触を理由にいったんは除名されていたのだが、児玉誉士夫会長ら政治的思惑のある人々を後ろ盾に、日本プロレスと張永哲のルートに楔を打ち込み、韓国には自分のルートで選手を供給する約束を取り付けた。

その際、世界かそれに準ずるタイトルを取ったら、2代目力道山を襲名させるという約束までさせて。

『Gスピリッツ Vol.56 』によると、大木金太郎は豊登道春と不仲だったために、この時点で日本プロレスをいったん退団したらしいてが、アントニオ猪木の略奪事件があったおかげで、日本プロレスには日本陣営のナンバー2として戻った。

が、今度は第9回ワールドリーグを途中で抜けて、韓国でWWA世界ヘビー級選手権を朴正煕大統領の肝いりで日本プロレスに無断で開催。

タイトルをとったものの、力道山襲名は反故にされる。

それどころか、ナンバー3のくせに世界タイトルを取ってしまったので、日本プロレスとしてはそれを黙殺しなければならず、それは結果的に日本プロレスともっともつながりの深かったWWAの権威を貶めることになった。

ちなみに、1969年に日本プロレスがNWAに加盟するまでは、ジャイアント馬場のインターナショナル選手権はWWA認定である。

ということは、ジャイアント馬場よりも格上のタイトルを取ってしまったわけだから、日本プロレスとしては迷惑この上ない話である。

ことほど左様に、大木金太郎は、とにかく進め進め、イケイケドンドンで、それが最終的には失敗に終わるのである。

いったんは辞表を書いて国際プロレスに殴り込んだくせに、アントニオ猪木の「クーデター事件」や、坂口征二の合流話には、「力道山先生の日本プロレスを守れ」などと急に忠誠心に満ち溢れたことをいい、選手会長になったり、単独エースになったり、目先の欲に走って、結局日本プロレスを潰して日本における自分のホームリングを失ってしまった。

勝つことばかり考えて進み、結果的に負けているのだ。

たとえば、ジャイアント馬場は華々しすぎるアメリカサーキットと書いたが、それでも、グレート東郷やフレッド・アトキンスにしっかりお金はとられていたし、力道山には外国人招聘のための外貨を貸して生前はついに返してもらえなかったし、さらに日本プロレスと絶縁したグレート東郷からは、破格の契約を提示されたが、熟慮の末、報酬が2桁も下がる日本プロレスに戻った。

一歩退くことで、次の機会のメリットを考えているのだ。

しかしまあ、賢い人は、誰でも選択肢があればそうするよね。

大木金太郎は、とにかく一本気、悪く言えば単純なのである。

誰が力道山の後継者だったのか

力道山三羽烏を比較する時、よく、プロレスならジャイアント馬場、レスリング(シューティング)ならアントニオ猪木、喧嘩なら大木金太郎といわれる。

そう結論づける道場マッチがあったかどうかの真相はともかくとして、3人の「アメリカ武者修行」を見ると、そう評価されるような歩みであることがわかる。

冒頭の「力道山の後継者」の結論だが、頭の良さではジャイアント馬場、事業欲価値観・試合運びではアントニオ猪木、プロレスは喧嘩とするカタさを受け継いだのが大木金太郎、といったところだろうか。

ところで、これまで何人かのレスラーの名を挙げたが、ひとりだけ意識的に外したレスラーがいる。

マンモス鈴木である。

マンモス鈴木は、ジャイアント馬場と一緒に渡米しており、本来なら本書にも、四天王として登場しても良かったのかもしれないが、著者の小泉悦次氏は『Gスピリッツ Vol.56』で、「鈴木が他の3人と並び立つどころか、差があり過ぎたとしかいいようがない」と、並び立てることができなかったと告白していることを付記しておこう。

Gスピリッツ Vol.56 (タツミムック)
Gスピリッツ Vol.56 (タツミムック)

以上、『史論ー力道山道場三羽烏』(辰巳出版)はジャイアント馬場、大木金太郎、アントニオ猪木のアメリカ武者修行時代俯瞰、でした。

史論‐力道山道場三羽烏 (G SPIRITS BOOK) - 小泉 悦次
史論‐力道山道場三羽烏 (G SPIRITS BOOK) – 小泉 悦次

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