アントニオ猪木は日本プロレス時代BI砲といわれたが東京プロレスから出戻時の序列は上田馬之助、ミツ・ヒライの次だった

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アントニオ猪木は日本プロレス時代BI砲といわれたが東京プロレスから出戻時序列は上田馬之助、ミツ・ヒライの次だった
アントニオ猪木は日本プロレス時代BI砲などといわれたが、豊登の誘いで日本プロレスを離脱したものの、たった1年で日本プロレスに出戻った“出戻り”である。しかし、出戻りが簡単に上に行ったら他のレスラーが黙っていない。出戻ったときの猪木の処遇は?



アントニオ猪木が、東京プロレス崩壊後に日本プロレスに出戻り、ポスターにその名前を連ねたのは、1967年の初夏に開催された第3回ゴールデンシリーズだった。

ヤフオクには、当時のポスターが出品されている。昭和プロレスファン垂涎の出品である。

第3回ゴールデンシリーズ
https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/e268081352 より

ダラ・シン、サーダラ・シン、ディック・スタインボーン、ダッチ・サベージ、アイク・アーキンスの5外人を迎え撃つのは、ポスターの順に、ジャイアント馬場、吉村道明、芳の里淳三、プロフェッサー・イトウ(上田馬之助)、ミツ・ヒライ、猪木寛至となっている。

外国人陣営が、格の順番に左から並んでいるので、そのデンで日本陣営も並んでいると見れば、猪木寛至はナンバー6ということになる。

そして、このシリーズは、マーク・ルーインを破ってWWA世界ヘビー級選手権を戴冠した大木金太郎が、WWAのあるロサンゼルスに防衛にでかけており、このシリーズは不参加。

もし、参加していれば、おそらくはジャイアント馬場に次ぐナンバー2であろうから、そうなるとアントニオ猪木、もとい猪木寛至は、日本プロレスでの序列はナンバー7ということになる。

何より、「アントニオ猪木」ではなく、「猪木寛至」での復帰だった。

ナンバー7であり、かつアントニオ猪木ではなく猪木寛至。

それはすなわち、出戻りの際の条件は、東京プロレス時代のキャリアは「なかったことにする」ということである。

東京プロレスに行く前の猪木は、アメリカ遠征から帰ってくるはずの、大木金太郎とナンバー2争いをするポジションにいた。

それが、予定されていた第8回ワールドリーグ戦に参加せず、東京プロレスへ。

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ポスターでは、トップである。

豊登は、アントニオ猪木に対して「日本プロレスにいても馬場の下だ」と言って口説いたそうだが、自分には欲がなかったのか、アントニオ猪木をトップに、2番手はアントニオ猪木がアメリカ時代世話になったディーン樋口、そして豊登自身は3番手だった。

そして、東京プロレスは崩壊してアントニオ猪木は日本プロレスに出戻るが、「東京プロレスでトップだった」ことを実績として認めて処遇したら、その間、日本プロレスで頑張っていたレスラーの立場がない。

「だったら俺もやめて、日本人の手薄な後発団体でもっと上で実績を作ってから戻ればいいや」ということになってしまう。

アントニオ猪木とさしてキャリアの違わない上田馬之助、そして“年下の先輩”であるミツ・ヒライは、渡米経験もあり、リングネームも持っている。

かられの下の7番手である「猪木寛至」として出直すのは妥当なところだったのだろう。

それでも、大熊元司、小鹿雷三(グレート小鹿)、高千穂明久、林牛之助(ミスター林)らよりも上だったのだから、猪木寛至としてはよしとしなければならないところなのだ。

“7番手”から半年後にBI砲誕生へ

だが、日本プロレスとしても、7番手として猪木を戻したわけではないだろう。

東京プロレスにいったときも、斉藤昌典や木村政雄ら、有望な若手が除名されているのに、主力になることは間違いなかった猪木はそうならなかった。

一説には、日本プロレス復帰時に1000万円の支度金が支払われ、北沢幹之、柴田勝久、永源遙ら、配下のレスラーまで面倒見てもらった。

実際、離脱前はメインエベンターではなかったのだから、どのくらいやれるかは未知数である。

そこで、しばらくは7番手で様子を見て、折を見て上に戻すつもりだったのだろう。

まもなくしてアントニオ猪木は、大木金太郎の渡米で空位になったアジアタッグ選手権王座決定戦のチャンスを貰い、吉村道明のパートナーとして第19代チャンピオンになった(1967年5月26日、札幌中島体育センター)。

ジャイアント馬場のパートナーとして、第9代インターナショナルタッグ選手権についたのは、その半年後の1967年10月31日(大阪市・大阪府立体育館)である。

昭和プロレスは何を語っても面白い。

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コメント

  1. 竹田 正一 より:

    こんにちは♪

    拝読させて頂き、復帰後の試合中継で、清水一郎アナウンサーが、アントニオ猪木では無く「猪木寛至」と呼んでいたのは、その辺りの事情だったのかな?と、納得致しました。

    ジャイアント馬場のアメリカ遠征の実績に比べましたら、猪木のそれは全く比較になりません。
    レスラーとして、最後まで猪木をライバルと思わなかったのは当然の事だったのでしょう。