昭和プロレス懐古房

大木金太郎のシリアスな試合は対バーナード、ブラジル、猪木戦

大木金太郎のシリアスな試合は対バーナード、ブラジル、猪木戦
大木金太郎。日本プロレス時代は、ジャイアント馬場、アントニオ猪木とともに三羽烏といわれ、または吉村道明を加えた四天王ともいわれた、昭和プロレスの中心レスラーである。では、その大木金太郎にとって印象深い試合はどんなものがあっただろうか。

大木金太郎は、熱くなると試合の組み立てを忘れると、ミスター高橋の例の本に書かれていた。

もともと、観客を意識した技の使い方や試合の組み立てができず、一本足原爆頭突きという、ツボにはまれば強さを発揮する必殺技を持っていながら、いまひとつ華のないレスラーだった。

では、そんな大木金太郎の試合で、印象深いものがあっただろうか。

筆者がぱっと思い出せるのは3試合である。

ひとつは、1968年12月1日、仙台市宮城県スポーツセンター(NWAチャンピオンシリーズ)で行われた、45分3本勝負のタッグマッチである。

キム・イル(大木金太郎)がアントニオ猪木とタッグを組み、ブルート・バーナード、ロニー・メイン組と対戦した。

1本目の場外乱闘で、ブルート・バーナードは、長さ1.5メートルほどの角材で、キム・イル(大木金太郎)の脳天にめがけて振り下ろした。

しかし、キム・イル(大木金太郎)がわずかに首を右にそらしたために、角材が左耳にひっかかり、耳が半分ちぎれて鮮血がほとばしったのだ。

1本目は両者リングアウトに終わったが、現実として試合どころではない。

決勝の3本目、アントニオ猪木がロニー・メインをコブラツイストで下し、とっとと試合を終わらせた。

しかし、この興行は、ジャイアント馬場対ジン・キニスキー戦のインターナショナル選手権がメインイベントである。

すっかりセミファイナルの興奮で、ジャイアント馬場、ジン・キニスキー、そして観客のノリが微妙にくずれてしまったのではないだろうか。

怪我はアクシデントだが、角材自体、どこにあたってもただではすまないし、確信犯的な一撃だったような気もする。

次が、ボボ・ブラジルとの、頭突き世界一戦ともいえる戦いである。

大木金太郎とボボ・ブラジル、どちらが石頭だったか?という問いは、昭和プロレスファンの間でもよくかわされる。


Facebookタイムランより

筆者は、1969年4月16日に、大阪府立体育館(第11回ワールドリーグ戦)で行われた、ジャイアント馬場、大木金太郎組対ボボ・ブラジル、クリス・マルコフ組の試合で、答えは出ているのではないかと思った。

馬場 大木vsブラジル マルコフ

この試合、2人が頭突き合戦をするシーンがある。

最初は互角のように見えたが、ボボ・ブラジルのジャンピングヘッドバットで、大木金太郎はガクッと膝をついている。

すると、ボボ・ブラジルは攻撃をやめ、次の大木金太郎の頭突きから逃げた。

観客は、大木金太郎の頭突きからボボ・ブラジルが逃げたと見たかもしれないが、筆者は、人格者のボボ・ブラジルが、大木金太郎の商品価値を守ったのだなと解釈した。

もう1度書く。

ジャンピングヘッドバットで、大木金太郎はガクッと膝をついたのだ。

それなら、それを繰り返して、頭突き合戦に決着をつければいいはず。

げんに、ボボ・ブラジルは、ジャイアント馬場からジャンピングヘッドバットでフォールを奪い、インターナショナル選手権を奪っている。

ジャイアント馬場にはできて、大木金太郎にはできない。

それは、大木金太郎は頭突きを売り物にしているから、ジャンピングヘッドバットでフォールを取られてはいけないレスラーだということを、ボボ・ブラジルが理解しているからである。

このシリーズは、第11回ワールドリーグ戦だったが、大木金太郎は負傷という理由で、この後のボボ・ブラジル戦を不戦敗している。

しかし、このリーグ戦は、アントニオ猪木と坂口征二が参加し、アントニオ猪木が幸運に優勝したという結末にするため、日本陣営が僅差で好成績を挙げているが、大木金太郎は6勝2敗だった。

ジャイアント馬場、アントニオ猪木が6勝1敗1分であるから、大木金太郎はボボ・ブラジル戦をかりに引き分けでも2人に並べた。

だから、あの出たがりの大木金太郎の不戦敗は、あまりにも惜しいというか不自然な気がした。

その後も、大木金太郎はボボ・ブラジルと戦ってはいるが、ボボ・ブラジルがジャンピングヘッドバットで大木金太郎を仕留めるというシーンもなかったし、大木金太郎が一本足原爆頭突きをボボ・ブラジルに見舞うシーンもなかった。

星のやりとりの中に初めて見せた「物語」

そして3つめが、1974年10月10日の蔵前国技館における、対アントニオ猪木戦である。

日本プロレスが、NETをバックに持った坂口征二の離脱⇒新日本プロレス合流によって致命的な打撃を受け崩壊。

その後、日本プロレスの残党は全日本プロレスに合流したが、大木金太郎は外様の悲哀を感じて半年で離脱した。

その大木金太郎を、ストロング小林に続く大物の対戦相手として白羽の矢を立てたのが新日本プロレスである。

しかし、アントニオ猪木と大木金太郎には、因縁があった。

ジャイアント馬場が、入門時から給料が出ているのに、アントニオ猪木と大木金太郎はその他大勢の新弟子扱い。

当時は2人で慰め合う飯を食べたという。

アントニオ猪木の東京プロレス離脱で、一時期はナンバー2になった大木金太郎だが、アントニオ猪木が日本プロレスに復帰すると、出戻りで後輩であるアントニオ猪木よりも格下になったしまった。

さらに、せっかく自分がインターナショナル選手権者になったのに、アントニオ猪木の新日本フロレスに坂口征二+NETを取られてしまったために、日本プロレスは崩壊してしまった。

そんな過去を背負っての戦いだった。

試合は、大木金太郎の頭突きを耐えたアントニオ猪木の逆転勝ちが鮮やかな名勝負と言われているが、筆者は、大木金太郎にとってまれに見る「物語を感じる」名勝負と評したい。

大木金太郎は、いつもと違って試合途中から興奮することもなく、頭突きもなにか悲しげな顔で正面から重いものをゴツゴツと繰り返していた。

日本プロレスにおける因縁があって、こいつだけは許さないと思っているのか、でも力道山時代の合宿で一緒にやっていたことを思い出しているのか……、アントニオ猪木からすると、上がるリングを失ったかつての仲間に対して若干の負い目を抱き敬意を払った試合をしているのか……、などと見るものが背景をナイーブに想像できるような試合展開で、ストーリーの作れない大木金太郎にとって数少ない深い試合だった。

しかし、その後、韓国ではインターナショナル選手権をかけて引き分け。

次にワールドリーグで大木金太郎が勝って星を分け合い1勝1敗1分にしているのだが。

さらに、完全決着が付く前に、全日本プロレスのグレート小鹿が大木金太郎に声をかけて、ジャイアント馬場が勝ってしまうところも抜け目がなかった。

どうして1勝1敗1分の後、新日本プロレスが完全決着をつけずに大木金太郎を手放してしまったのか。

大木金太郎との試合は、第一戦以上のものはできないとアントニオ猪木が思ったか、坂口征二と大木金太郎の試合が不穏な展開で、プロレスにならなかったので、大木金太郎を使うのを諦めたのかもしれない。

いずれにしても日本的なウェットなものはありすぎて、ビジネスとしては続けるのが難しかったのかもしれない。

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一方全日本プロレスは、日本プロレス合流時代の大木金太郎に対してはキラーコワルスキーを使って潰しにかかり、恐怖を感じた大木金太郎が出ていくように仕向けたものの、大木金太郎がアントニオ猪木と互角の成績を残すと商品価値を再評価してまた迎え入れた。

そのかわり、全日本プロレスに来たガイジンで韓国のツアーを組むことを認めたり、大木金太郎をNWAの会員に推挙したり(もちろん全日本プロレスの陣営=NWA主流派の1票を増やすという意味も含む)、インターナショナル選手権の保持を黙認したりした。

大木金太郎も、朴正熙政権の援助が得られなくなり、経済的に困っていたところだったので渡りに船で、こちらはビジネスライクなところがあったが、ジャイアント馬場と大木金太郎の関係はなんだかんだで長続きした。

でもビジネスは信頼関係がないと成立しなかったから、ジャイアント馬場と大木金太郎は何だかんだで信頼関係もあったのだろう。

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