昭和プロレス懐古房

馬場元子さんが亡くなった。印象深い2000年天龍源一郎復帰と2016年三条名誉市民贈呈式。言われるほど悪い人ではない

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馬場元子さんが亡くなったと報じられた。ジャイアント馬場夫人として、プロレスファンにはお馴染みの方である。ただし、決して自ら好んで表舞台に出るわけではなかった。印象深いのは、2000年の天龍源一郎復帰と2016年の三条名誉市民贈呈式である。



馬場元子さんについて、結論から述べると、

言われるほど悪い人ではない

と思う。

全日本プロレスが個人商店的運営であることの齟齬と、ちょっとお嬢様育ちの元子さんのキャラクターがたっていただけである。

では翻って、悪口を言った連中は正しいのか。

たとえば、『昭和プロレス悪魔の辞典』(井上譲二著、宝島社)によると、全日本プロレス離脱直後は、トークショーでも馬場元子さんを悪し様に言うのが「お約束」だった三沢光晴はとっくに和解し、長電話で話をする関係に戻っていたという。

馬場元子さんが、三沢光晴の葬儀に出席したのは、決して「義理」だけではなかったわけだ。

井上譲二氏は、「三沢のなかでは生まれ育った全日本プロレスを離脱したことに対して、後悔の念もあったと私は感じている」と結んでいる。

秋山準や大森隆男も戻り、リストラもあったが、菊地毅、井上雅央らも全日本のリングに上がった。

要するに彼らは、自分の意見と違うからおん出たものの、馬場元子さんについて事実上自己批判や修正をしたに等しい。

思い出深い2つの晴れ舞台

馬場元子さんのハイライトといえば、2000年7月2日の後楽園ホール、天龍源一郎復帰の告知に尽きるだろう。

天龍が全日本に衝撃復帰 2000.07.02

文字載録してみよう。

馬場元子「今回は、私の努力が足りなかったことで、こんな事態を招いてしまい、本当に申し訳ありませんでした。改めて全日本プロレスを応援してくださっている人に、 心からごめんなさいを言わせていただきます。本当にごめんなさい。」

頭を下げる馬場元子と渕正信、川田利明、マウナケア・モスマン(太陽ケア)。客席から「そんなことないぞ」という声がかかる。

馬場元子「今回の問題で一度は全日本プロレスの28年の歴史に幕を下ろすことも真剣に考えましたが残ってくれました 川田選手、渕選手、モスマン選手、そして外人選手の人達に励まされもう一度全日本プロレスをスタートさせる勇気を与えられました。この状態の中で私達はそう大きな目標を掲げることができません。でも馬場さんが残してくれた 全日本プロレスのなんとか30周年が迎えられるよう 精一杯頑張ってまいりますので これからも全日本プロレスを皆さんの力で 支えてくださいよろしくお願いいたします」

馬場元子・選手一同頭を下げ客席拍手。

馬場元子「今回の再スタートにあたり 私自身どうしても 皆様の前で川田選手と握手をしていただきたい方 を、今日頂いてます」

「おっ」という客席のどよめき

馬場元子「ご紹介させていただきます。 天龍源……

言い終わる前に客席悲鳴のような最大級の歓声。

天龍源一郎が花道からリングを上がり、川田利明、渕正信、マウナケア・モスマン(太陽ケア)と握手をし、馬場元子の前でいっかい手を服にこすり、両手で握手、そして客席に一礼してリングを下りる。

三沢光晴は、このことについて、「自分かお願いしたときは断ったくせに」とホゾを噛んだらしいが、全日本プロレスをやめた人間が、文句を言う資格はない。

そもそも三沢光晴は、全日本プロレス最初の東京ドーム大会において、天龍源一郎の参戦をジャイアント馬場に尋ねられ、小橋建太とともに拒否したと自ら話しているではないか。

そしてもうひとつ、プロレスファンの前に最後に姿を見せたといわれるのが、ジャイアント馬場新潟県三条市名誉市民贈呈式(2016年10月17日付け)だ。


『東京スポーツ』2016年10月18日付より

2016年8月、三条市は、同市6人目の名誉市民に選定する方針を発表。

「プロレスを世に定着させ、リーダーとして活躍された馬場さんの往時を知らない世代にも、(功績を)知ってもらわなければいけない」(国定勇人市長)

「感謝の気持ちだけです。皆さんの協力を得ていただいたということは、馬場さんもとっても喜んでいると思います」(『東京スポーツ』2016年10月17日付で馬場元子さん)

久しぶりに拝見して、ずいぶん歳を取られた印象があったが、今にして思うと、すでに肝臓の病で体が弱っていたのかもしれない。

馬場元子さんの生前のご遺徳をお偲び申し上げます。


ネェネェ馬場さん


ジャイアント馬場 王道ミュージアム

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