国際プロレス日本側外国人第一号はビル・ロビンソンではなかった

国際プロレス日本側外国人第一号はビル・ロビンソンではなかった
国際プロレスを懐かしむ投稿を本日のFacebookのタイムランで拝見した。そこには、豊登道春、サンダー杉山、ラッシャー木村、ストロング小林、グレート草津らの画像が並ぶが、それはTBSプロレス時代の布陣。そのときのヒーローはビル・ロビンソンだった。





ビル・ロビンソンといえば、外国人レスラーでありながら、他の来日外国人が反則攻撃をするので、自分はフェアに試合をしたいから日本陣営に入るといって、しばらく日本陣営のトップをとっていたことで知られている。

TBSプロレス時代の布陣
Facebookタイムランより

これは、国際プロレスの日本陣営が手薄であったからに他にならない。

それまで、日本プロレスでは、ワールドリーグ戦で外国人同士の試合はあっても、通常は日外対抗であり、外国人レスラーが日本陣営に入って試合をするということはなかったから、日本側外国人の先駆者としてビル・ロビンソンは、プロレスファンにとっては新鮮にうつっただろう。

しかし、正しくは、ビル・ロビンソンは日本側外国人第一号ではない。

では誰かといえば、答えから先に述べると、サム・スティムボートである。

上段左から2番目が、サム・スティムボート。いちばん左はパートナーのエディ・グラハムである。

上段左から2番目が、サム・スティムボート。いちばん左はパートナーのエディ・グラハム
闘道館公式サイトより(https://www.toudoukan.com/shop/goods/$/id/2056017/)

これは、日本プロレスに来日した時のポスターだ。

昭和プロレス史上、屈指のシリーズだった。

このときは、日本陣営の右から2番目と3番目、ヒロ・マツダとデューク・ケオムカとともに“パッケージ”でやってきた。

プロリダで行っていた試合を、そのまま日本に直輸入して、日本に対するマーケティングリサーチを行ったのである。

このときは、エースになったばかりのジャイアント馬場が大きく譲歩した。

アジアタッグ選手権で、キラー・カール・コックス、ジョー・カロロ組に敗れ、リターンマッチをすることなく、ヒロ・マツダに挑戦権を譲っている。

そうしたヒロ・マツダの格を最大限上げた中で、ヒロ・マツダ、デューク・ケオムカ組対エディ・グラハム、サムスティムボート組のNWA世界タッグ選手権が川崎球場で行われ、多くの観客を動員したことで、ヒロ・マツダは日本でもやっていけることを確信。

その後、遠藤幸吉との確執などから日本プロレスを退社した吉原功とともに、国際プロレスを興した。

そして、ヒロ・マツダの荏原高校の後輩であるマティ鈴木も追従した。

国際プロレスは、大きく分けると4つの時代に分けられるが、最初が、このヒロ・マツダ在籍時代である。

国際プロレス旗揚げシリーズは、大きな赤字を背負い込んだという。

1ドル360円の時代に外国人5人を呼んだことと、東京プロレス勢に多額の報酬を払ったそうだ。

次のシリーズは、だいぶ間が開いて開催。

アントニオ猪木ら、旗揚げシリーズに参加した東京プロレスの5レスラーが日本プロレスに出戻り、入れ替わりで豊登が参加した。

ここでも4人の外国人レスラーを呼んだ。

この時参加したサム・スティムボートは、日本側で出場している。

この2シリーズの赤字で吉原功は自宅を抵当に入れ、マティ鈴木も600万円の借金を作った。

しかし、ヒロ・マツダは、格安のファイトマネーとノーギャラのブッキングだけで、負債を背負わなかったという。

そこで、吉原功とヒロ・マツダの間には溝ができた。

一般には、それがヒロ・マツダの離脱の原因といわれているが、流智美氏が、『日本プロレス事件史』などで再三書いているのは、ヒロ・マツダは、自分のホームグラウンドであるフロリダの日本支部を作りたかったのに、ついたテレビ局のTBSが、その構想をもたなかったからだという。

そして、吉原功は、そもそもそのときは実権がなかった。

かくして、TBSをバックに、『TBSプロレス』と改称した国際プロレスによって、『TWWAプロレス中継』が開始された。

TWWAとは、カナダ・トロントにでっち上げた団体で、ブッカーはグレート東郷であった。

ヒロ・マツダだけでなく、マティ鈴木も国際プロレスを去っていた。

これが、国際プロレス第2期の始まりである。

しかし、グレート東郷とも2シリーズで衝突。

ヨーロッパ、そしてAWAとの提携に活路を求めたのが第3期である。

そして、生え抜きエースとして大事にしていたはずのストロンく小林が退団。

TBSの放送が打ち切られ、ラッシャー木村をエースに、テレビ東京で金網プロレスを連発するのが第4期である。

アイデアマンか、たんなる思いつきか

冒頭の画像。前列にうつっているのは、サンダー杉山、ラッシャー木村、グレート草津の“国際プロレス三羽烏”だが、その3人はすでに鬼籍に入り、一緒に写っている外国人も存命の方はダニーホッジぐらいではないだろうか。

昭和プロレスは遠くなりにけりである。

一部のファンからは、アイデアマンの吉原功は時代の先を行き過ぎていた、という意見もある。

しかし、そのやり方は、急ごしらえで中途半端なものが多かったという意見もある。

吉原功自身、力道山道場で鍛えられたレスラーこそが最高だという考えがあり、そのため、後発の新日本プロレカや全日本プロレスに遠慮してしまうところがあったのではないだろうか。

姉妹ブログ『昭和プロレス今昔』では、国際プロレスについて、こんなコメントが入っている、

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当時、子供心にも国プロはマイナーな印象が
否めませんでした。
日プロの「華」に対しては言うに及ばず、東京12チャンネル(当時)の「本場のプロレス」を見てしまうと…(後から知った事ですが、12チャンのそれは、アメリカの古い映像のビデオ放送でしたが…)。
ビル・ロビンソンがエースになってどこか安心した覚えがあります。
日プロのアメリカンプロレス路線に対して、ヨーロッパのレスラーの招聘に頼るしかなかった国プロでしたが、その面白さがわかるようになったのは随分と後からでしたから、もったいない事をしたと思っています。
ジャントニオ猪馬 2016-10-30 11:06
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国際は僕が中学の頃、テレビで初放映されたのを覚えています。確か同日同時間帯には会場の(蔵前にあった)国技館と隅田川を挟んで数十メートルにあった(旧国技館の)日大講堂で日本プロレスが馬場対C・リソワスキーのインター戦を当て、試合後の控室で実況の徳光アナ〔当時〕のマイクを奪ってリソワスキーが荒れ捲ったシーンを覚えています。すぐにTBSへチャンネルを切り替えると間もなくエースの草津がテーズの岩石落としで試合続行不能になった姿が映し出されたのにも驚きましたが、その後の放送面での紆余曲折もお茶の間側から感じ取れました。何しろ2シリーズほど経過したら、突然、外人がアメリカレスラーから(ジュニアヘビー・クラスの)欧州選手に代わってしまい、随分とスケールダウンしてしまった印象を受けたものです。
実際に観戦したのは数年後でしたが、すでに最末期に移籍して来た大木金太郎も去ったルー・テーズ杯争奪戦。テーズに初戦で失神の憂き目に遭った元エース草津はセミリタイア状態で、数人の(真面目ながら華のない)選手で金網マッチを連発しながら落日を迎える直前に数回、国プロの会場へ行きましたが、金網がリングを囲むメーンの試合時でも客足は寂しいものでした。その後まもなく北海道の最果ての地で“最終戦”となったと言われておりますが、東京までの数地域で“草プロレス”並みの自主興行を開催して羅臼から帰る旅費等を捻出して帰京したとも聞いたことがあります。
余談ながらアップされた道場での記念写真で柔道着姿のT杉山氏は僕の学校の先輩で、丁度、氏の地元・名古屋へ赴任した折には愛知県体育館での新日の特別試合で観たこともありました。国プロ崩壊前に全日へ移籍したのち馬場氏とも何らかの確執があって、それ以後、新日に特別出場するようになった事情については知り得ませんが…?
ミスターP 2016-11-10 12:41
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個々のレスラーを見ると、味わい深い人も少なくない。

60年以上積み重なった日本のプロレス史上、たった15年の活動期間だったが、今も多くのマニアがこだわっているのはわかるような気がする。

また、折に触れて国際プロレスについては言及しようと思う。

日本プロレス事件史 vol.30 黄金時代の衝撃 (B・B MOOK 1361 週刊プロレススペシャル シリーズ完結編!) -
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