昭和プロレス懐古房

サンダー杉山の昭和プロレス人生をまとめた『何度だって闘える』

サンダー杉山の昭和プロレス人生をまとめた『何度だって闘える』
『何度だって闘えるーサンダー杉山物語「一片の悔いなし!」』(安藤千絵著、名古屋流行発信)を読んだ。新刊ではないが、サンダー杉山の自伝的体裁でまとめられた書籍である。昭和プロレスを駆け抜けたサンダー杉山について同書からきとめてみたい。


何度だって闘える―サンダー杉山物語「一片の悔いなし!」 –

『何度だって闘えるーサンダー杉山物語「一片の悔いなし!」』は、タイトル通り、元プロレスラーで、名古屋の実業家だったサンダー杉山・杉山恒治氏について、その生涯を書いている。

サンダー杉山・杉山恒治は、同書が言うところの「脇腹の子」すなわち「妾腹」という意味である。

その後、本妻の家庭に引き取られ、本妻や腹違いの兄(15歳上)にいじめられる、という誰もが予想できる幼少期を経験。

父親は会社をいくつも持つ金持ち。

本妻のところに引き取ったぐらいだから裕福な家庭であり、サンダー杉山・杉山恒治を可愛がったが、贅沢はさせなかった。

ケチということではなく、教育方針だったようだ。

たとえば、美味しいものは父親が自分で食べ、お小遣いも働いたら与えるようにした。

それによってサンダー杉山は、裕福な家庭に育ちながら、自分で稼ぐことが大切であるというハングリー精神を身につけた。

腹違いの兄は空手を習っており、ガキ大将だったサンダー杉山でも勝てなかった。

その兄に勝つには、自分も強くなりたいとサンダー杉山は考えた。

父親も、サンダー杉山が喧嘩に負けても、「強ければ勝てる」と突き放した。

そこで、サンダー杉山は柔道を始めた。

それが、アスリート人生の始まりである。

サンダー杉山こと杉山恒治は高校時代、柔道部に属していたが、名門東海高校から同志社大学に進学。

事情があって大学を去るものの、すぐに声がかかり、明海大学に柔道部にコーチ兼学部の特待生として編入。

さらに、高校の時に声をかけてくれた明治大学に編入したが、やはり事情があってすぐに柔道部には入れないということで、いったんはレスリング部に所属する。

すると、入部してすぐに、ローマオリンピック最終予選にいきなり優勝。

そのときはレスリングのキャリアがないからと結局選考から漏れたが、次の東京オリンピック(1964年)まで待って出場権を獲得した。

さらっと書いたが、これほどのフィジカルエリートはそうはいないだろう。

3つの大学を往来し、競技をかえてもすぐにオリンピックへ行ったのだ。

その後、やはり明治大学の斎藤昌典(マサ斎藤)とともに日本プロレスに入団。

練習生・杉山恒治時代に、映画『喜劇駅前弁天』に出演しているが、練習生の中からたまたま選ばれたというよりは、東京オリンピックの実績があったからだろう。

プロレスの世界では、歳下なのにキャリアを積んだ若手の嫉妬を受けたという。

同書は、サンダー杉山のプライドからか実名はないが、それは高千穂明久を後に名乗った米良明久のことである。

それが理由というわけではないだろうが、サンダー杉山は2年で退団。

本人曰く、もともと、プロレスラーになったのは、米国に渡る人脈を築くためだったという。

ところが、日本プロレス時代に世話になった吉原功氏の起こした新団体・国際プロレスに誘われて、いったんは入団した。

そこでは、豊登道春やラッシャー木村とTWWA世界タッグ選手権を、シングルではビル・ロビンソンからIWA世界ヘビー級選手権を奪う。

国際プロレスが、ストロング小林時代になって軌道に乗ると、退団して社会勉強でスズケンに入社。

しかし、今度はジャイアント馬場から声がかかり、全日本プロレスへ。

当時、ジャイアント馬場の1試合の報酬が13万円で、サンダー杉山が提示されたのが7万円。

旗揚げに駆けつけた、マシオ駒や大熊元司がおそらく3~4万円程度だったことを考えると破格である。

ただ、この高待遇が逆に足かせとなる。

日本プロレス勢が合流して選手がだぶつき、人件費がかさんだ全日本プロレスは、サンダー杉山に事実上の肩たたきをする。

たとえば、新幹線をグリーン車から普通車にしたり、試合を組まなかったりした。

そして、遂に対戦相手のことで揉めて退団。

以後は、国際プロレスや新日本プロレスにフリーとして参戦しながら、徐々に事業に本腰を入れるようになり、ホテル、飲食業、自動販売機などいくつもの会社を持って、実業界でも成功をおさめた。

自分の目標を持つことと縁を大切にすること

サンダー杉山の生き方に特徴的なのは、まず自分の目標を持って、それに向かって進むということ。

レスリングでオリンピックに出ても、それは“腰掛け”であるという考えはかえないし、国際プロレス時代にチャンピオンになっても、自分は事業をするから、という初期の目標を貫徹するために、あっさり引退している。

その一方で、そのときどきの成り行きには逆らわず、日本プロレスをやめたあと、すぐに事業を始めたいのを少し我慢して、国際プロレスや全日本プロレスなどに誘われると、その団体のリングに上がった。

自分にやりたいことがあるからといって、そこだけを見るのではなく、ビジネスは周囲の人達のご縁も必要だから、という見定めがあったからだろう。

自分に強い信念があれば、そこでいったんはビジネスから遠ざかっても、いずれチャンスは来る、と考えたのである。

結局、そのようなご縁を大切にする姿勢は、ビジネスを始めてから生きてくる。

たとえば、三顧の礼で迎えながら、肩を叩くようになってしまったことに自責の念があるのか、全日本プロレスでは、名古屋に遠征すると、サンダー杉山の経営するホテルを定宿にした。

もし、サンダー杉山が派手な泥仕合をしていたら、それはなかったし、退団後も、日本テレビのレギュラー番組(『底ぬけ脱線ゲーム』『おはようこどもショー』)も続けられなかっただろう。

タレントとして、それらのレギュラーで顔を売ったことは、事業に大きく役立ったという。

ところで、いじめられた本妻を、サンダー杉山はどう思っていたのか。

サンダー杉山が大学生の頃、もう本妻と一緒には住んでいなかったのに、サンダー杉山と、岩室というレスリング部の友人と、本妻は麻雀卓を囲む間柄だったという。

普通、なさぬ仲でうまくいかなかったら、途中で家をでてしまうか、少なくとも独立した時点で「それっきり」になる。

やっと別れてセイセイしているのに、誰が、麻雀なんかやってゴキゲンを伺うものだろうか。

しかし、そこからは何も生まれない。

サンダー杉山は、相手とうまく行かなければ、相手から自分を求めてもらうような関係にすることで、解決しようとした。

本妻は、いったん心を許すと、当時は高級品だった、カツ丼や天丼などを彼らにごちそうしてくれる関係になったという。

喧嘩別れして何も残らないより、カツ丼を食べた方がいいし、人間関係は繋がっていれば、そのつながりをたどることで、自分が困ったときに救いの手が差し伸べられる道筋になり得るかもしれない。

そこが、プロレスラーとして、タレントとして、実業家として成功したサンダー杉山の処世術の真骨頂である。

ことほどさように、『何度だって闘えるーサンダー杉山物語「一片の悔いなし!」』は、サンダー杉山が、プロレスラーとして、事業家として、なぜ成功したのかがよくわかる本である。


何度だって闘える―サンダー杉山物語「一片の悔いなし!」 –

モバイルバージョンを終了