昭和プロレスがアメリカと地続きの頃のG馬場、ヒロ・マツダ


スポンサーリンク↓

昭和プロレスがアメリカと地続きの頃のG馬場、ヒロ・マツダ
昭和プロレスと一口に言うが、力道山の時代も、豊登の時代も、BIの時代も、新日本プロレスと全日本プロレスの凌ぎ合いの時代も、すべて昭和プロレスであり、それぞれ個別の特徴がある。今回懐古したいのはそのどれでもない、ジャイアント馬場一強時代である。

冒頭の看板は、おそらく1966年のゴールデンシリーズ(5月27日~7月6日、全32戦)のものであると思われる。

右側がジャイアント馬場であるが、左側がわからない。

というより、誰か特定のレスラーをモデルにしたわけではないとおもう。

なぜなら、このシリーズのトップガイジンはキラー・カール・コックスであり、ヒロ・マツダの凱旋帰国でセットで来日したエディ・グラハム、サム・スティムボートらであるからだ。

要するに、ジャイアント馬場が、強豪ガイジンと闘うという、全国全シリーズで使える絵だったわけだ。

さて、タイトルに「アメリカと地続き」、冒頭に「ジャイアント馬場一強時代」と書いたが、日本のプロレスというのは、アメリカを本場と言いながら、そのプロレスをそのまま行ったわけではなかった。

力道山、豊登、アントニオ猪木。

ニュアンスは違うが、この昭和プロレスのトップスターたちは、すべて「ジャパニーズ・プロレス」(日本のプロレス)である。

その中で、ジャイアント馬場だけが、「プロレス・オブ・ジャパン」(日本プロレス)を行った稀有なトップレスラーである。

この違い、わかるだろうか。

つまり、“本場”アメリカの知名度と試合展開と価値観でプロレスを行った、という意味である。

この頃のプロレスは、古典的だけれども、アメリカで通用するしっかりしたプロレスだったはずである。

そういう意味で、ジャイアント馬場がエースであった1966年から、BI時代になる1969年までが、このブログの筆者は、一番懐古したいプロレスの時代なのである。


スポンサーリンク↓

シングルのジャイアント馬場、タッグのヒロ・マツダ

そんな時代を象徴するように、1966年ゴールデンシリーズには、ヒロ・マツダが凱旋してきた。

力道山と喧嘩別れして、もう日本の土は踏まないかもしれないと本人も思ったであろうが、豊登が猪木を略奪して東京プロレスを作ったこともあり、ヒロ・マツダを取られないように、との配慮もあったのだろう。

ヒロ・マツダは、ヒロ・マツダで、後に国際プロレスという、フロリダの日本支部を作りたかったので、そのマーケティングという意味もあって、エディ・グラハム、サム・スティムボート、デューク・ケオムカらと抱き合わせでの来日になった。

闘道館が販売しているポスターの、なんと懐かしいこと。何度見ても飽きない。馬場も吉村道明も芳の里も若かった。

闘道館
闘道館公式サイトより(https://www.toudoukan.com/shop/goods/$/id/2056017/)

ジャイアント馬場、ヒロ・マツダ、エディ・グラハム、サム・スティムボート、デューク・ケオムカ、そしてその後もジャイアント馬場の宿敵となるキラー・カール・コックスと、6人が「プロレス・オブ・ジャパン」を見せてくれたのだ。

ヒロ・マツダを立てるために、ジャイアント馬場はこのシリーズ、いったんアジアタッグを手放している。

この点は不本意だったろうが、その後、格上の位置づけで、インターナショナルタッグ選手権を新設し、ベルトを巻いている。

もとより、その前のシリーズの第8回ワールドリーグ戦では初優勝し、インターナショナルチャンピオンでもあるのだから、日本プロレスのエースであることは間違いなく、ジャイアント馬場にとっても、この頃がいちばんよかった時期ではないだろうか。