ジャイアント馬場時代の「終わりの始まり」とはいつか?


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ジャイアント馬場時代の「終わりの始まり」とはいつか?
ジャイアント馬場時代の「終わりの始まり」はいつか。昭和プロレスは、ネットでも様々なブログやサイトで振り返られているが、当時の漫画で回顧するとよりリアルにその時を思い出せる。『ジャイアント台風』を連載していた『少年キング』から振り返ろう。

冒頭の画像、『少年キング』第13号は、ジャイアント馬場の写真とザ・デストロイヤーの絵が描かれている。

ジャイアント馬場の写真とザ・デストロイヤーの絵

これはズバリ、1969年の2月のシリーズではないかと思われる。

ジャイアント馬場対ザ・デストロイヤーのインターナショナル選手権が東京体育館で行われ、1-0のまま時間切れでジャイアント馬場の勝ち。

1本先取したのは、ザ・デストロイヤーが例によって足4の時に入ろうと片足を取ったところ、ジャイアント馬場がキックしてザ・デストロイヤーはロープへ。

その反動で帰ってきたところをモンキーフリップ固めで決めたものだ。

このシリーズは、日本プロレスから絶縁され、国際プロレスをボイコットしたグレート東郷が、新団体設立に動くとも言われ、吉村道明が急遽渡米。

外国人選手も、ザ・デストロイヤーの他、ジム・オズボーン、ネルソン・ロイヤル、ポール・ジョーンズと少なめだったので、この試合は外国陣営が全員セコンドに付き、日本陣営も、別にジャイアント馬場が頼んだわけではないだろうが、アントニオ猪木が私服で頑張っていた。

少年キングの連載は『ジャイアント台風』であり、まだ、この頃は、アントニオ猪木が日本プロレスに復帰したと言っても、BIは並び立つものではなく、アントニオ猪木はあくまでも若獅子、弱冠などと呼ばれ、若手のホープ扱いだった。

同じ頃発売された、『ぼくら』4月号の表紙にも、ザ・デストロイヤーとジャイアント馬場が出ている。

ぼくら

そして、2ヶ月後のこの表紙は、マニアならメンバーですぐわかる、第11回ワールドリーグ戦のさなかである。

第11回ワールドリーグ戦のさなか

日本陣営からはジャイアント馬場、外国陣営は、ボボ・ブラジル、ゴリラ・モンスーン、クリス・マルコフ、メディコ2号が出ている。

格的には、ペッパーゴメスのはずだが、覆面=怪奇レスラーとしてメディコ2号が選ばれたのか、ペッパーゴメスの日本での評価が低かったのかはわからない。

ペッパーゴメスは、2度と日本に来なかったから、この扱いによほど腹を立てたのだろう。

しかし、腹を立てるということでは、ゴリラ・モンスーンも腹を立てても良かったのではないか。

本来なら、ボボ・ブラジルと外国人ナンバーワンを争う格で、おそらくはジャイアント馬場に勝った実績から、僅差でボボ・ブラジルというのが順当なところである。

が、このリーグ戦の前に、アントニオ猪木が新しい技の名前を公募し、卍固めと決まったり、NETが放送を決めたりと、アントニオ猪木が優勝する機運が高まっていた。

しかし、それまでのエースのジャイアント馬場をかんたんに凌駕させる訳にはいかない。

日本テレビのプロレス中継は、ジャイアント馬場がエースなのである。

そこで、アントニオ猪木が、“運良く”優勝できたストーリーを作らなければならないために、ゴリラ・モンスーンを脱落させ、ジャイアント馬場に刃が立たなかったクリス・マルコフを抜擢した。

そして、ジャイアント馬場が前年名古屋で敗れて、いったんはインターナショナル選手権を取られているボボ・ブラジルと同点決勝にして、難敵ボボ・ブラジルをジャイアント馬場にあて、さらに試合時間を30分1本勝負にして、ジャイアント馬場が勝ち抜けないようにした。

ゴリラ・モンスーンは、連休前の視聴率が高くなる長崎国際体育館の生放送で、秒速カウントで山本小鉄に負けて脱落させられた。

勝ち名乗りを受けた山本小鉄が男泣きしたのは、古いファンなら覚えておられるだろう。

日本プロレスは、ゴリラ・モンスーンに借りができたと思ったか、3年後の第14回ワールドリーグでは、すでに主戦外国人となっていたアブドーラ・ザ・ブッチャーを得点で上回って決勝に進出している。


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並び立っていたBI

そしてその半年後、『少年キング』は、ジャイアント馬場とアントニオ猪木を表紙に使っている。

ジャイアント馬場とアントニオ猪木

この時点でも、まだ『ジャイアント台風』は連載中である。

ということは、NETのエースであるアントニオ猪木をもはや無視できなくなっていたのである。

この流れを見ると、ジャイアント馬場一強時代から、BI時代への移ろいは、1968年6月25日、ジャイアント馬場が愛知県体育館においてボボ・ブラジルの挑戦を受け1-2で敗れ、インターナショナル選手権を奪われてしまったことと、NETの参入が、複雑系として絡んでいることがわかる。

いずれにしてもいえることは、そのときはたんなるタイトルのやり取りのつもりだったかもしれないが、実は1968年6月25日こそが、ジャイアント馬場時代の「終わりの始まり」だったのである。