マティ鈴木「人間は弱いが、やればできないことはない」


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マティ鈴木「人間は弱いが、やればできないことはない」
マティ鈴木のロングインタビューが掲載されている、『写真集・門外不出!力道山』(集英社)を読んだ、存命の“弟子頭”として力道山のエピソードを語っている。「悔しがるマティ鈴木」として昭和プロレスファンにはお馴染みの大ベテランである。

『写真集・門外不出!力道山』は、タイトル通り、プロレスマスコミではあまり使われたことのない、力道山の公私にわたる写真と、存命の力道山の弟子で最古参になるマティ鈴木と、力道山の長男の百田義浩氏のインタビューが収録されている。

今回は、昭和プロレスの貴重な生き字引である、マティ鈴木のインタビューをご紹介する。

マティ鈴木こと鈴木勝義がプロレスラーになる切っ掛けは、荏原高校の野球部の先輩、ヒロ・マツダにあったという。

「ええ。そのヒロさんが当時、人形町にあった力遺山道場に通っていたんです。むろん、レスラーになるためです。当時の私は野球部に所属はしていましたけれども、一方ではプロレスにも強い興味がありましてぬ。とはいっても、私の体は見てわかるとおりに小さいですから、本気でレスラーになれるとは思っていなかったんですよね。だけれども、興味だけはある。
 その心情を先輩であるヒロさんが察知してくれたんじゃないですかね。それで、当時の力道山道場はおもしろくてね。プロレスとボクシングとボディビルという3つの競技のジムがひとつになっているような道場だったんですよ」

「で、ヒロさんが“よかったら、お前、うちの道場でボディビルの練習でもしてみたらどうだ”と誘ってくれたわけなんです。ボディビルは以前から興味もありましたしね。実は体が小さいからとレスラーをあきらめていた頃に、たまたまアメリカのプロレス雑誌を見たことがあるんですよ。その雑誌にはグレート東郷さんのファイト写真が載っていてね。ああ、この人のように体が小さくても筋肉さえついていればアメリカでレスラーになれるかもしれないと考えてはいたんです。だから、ヒロさんの誘いはまさに渡りに船でした。ちなみに、力造山道場の中にあったボディビルのジムには400勝投手の金田さんが毎日のように訪ねてきて体を鍛えていましたよ」

「さきほども言いましたように3つのジムが一緒になっているような道場でしたから、自分がウエイトの器具をえっちらほっちら上げているそばを力道山が通ったりしていたんです。でも、私からすると力造山という人は憧れであり、雲の上の人でもありましたから、ただ黙って後ろ姿を見ているしかなかったんですね。でも、そんなある日のことです。力道山は道場中に響き渡るような大きい声でこんなことを言ったんですよ。『お~い、誰か野球のキャッチャーできるヤツはいねえか?』
 力道山は、草野球が大好きでしてね。自分の投げる球を後ろにそらさずにちゃんと受けてくれるキャッチャー役を探していたわけです。そこで私がパッと手を挙げてね(笑)。野球だったら、そこらへんの人間には負けない自信もありましたしね。それからですよ。なにかと力道山が私に目をかけてくれるようになったのは。まあ、キャッチャーができるということで重宝されたんです(笑)。毎日のように『おい、牛乳屋、キャッチボールするぞ』と声をかけられて。そうなんですよ。なぜかカ道山は私のことを“牛乳屋”と呼んでいたんですよね。たぶん、私がその頃、牛乳販売店でアルバイトしていたから単純に“牛乳屋”と呼んでいたのではないでしょうか。毎日のように『おい、牛乳屋。牛乳はな、体にいいんだからたくさん飲めよ』と言われていました(笑)」

力道山時代の日本プロレスというと、相撲崩れと、まれにレスリング出身。あとは中学を出たばかりの何色にも染まっていない少年、というのが入門チャンネルと思われがちだが、力道山は野球が好きなこともあって、野球経験者の入門もある。

ヒロ・マツダ、マティ鈴木、ジャイアント馬場、マシオ駒などである。

力道山と知り合いになったマティ鈴木は、なんと、力道山対木村政彦のセコンドもつとめたという。

「要するに、こういうことです。当時は、力道山の周りを相撲出身者が固めていたわけです。当然、セコンドにつくならそういう人たちが適任だったかもしれません。ただ、彼らは喧嘩早かったんですね。キレやすいというか(笑)。そうなると、余計な混乱を招く恐れがある。まあまあ、とその場が収まる場合でも穏便にならない状況を作り出してしまう可能性が高かったんですよ(笑)。そこで、私なら普通の少年でしたしね、何が起きでも臨機応変に動けるんじゃないかと力道山は考えたんじゃないですか。それに、まさか木村側も少年に危害を加えることはないと踏んでいたと思うんです。だから、私は中和剤の役目だったんでしょうね(笑)。力道山は豪快なイメージがありますけれども、そういうことに関しては実に繊細な神経が働く人でもありましたよね」

マティ鈴木は、力道山対木村政彦戦の裏話や、力道山の健康管理、お酒の飲み方、おしゃれなどについても語っている。

さらに、空手チョップ以外に、パイルドライバーを新しい必殺技にしたいことも打ち明けていたという。


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レスラーとして、経営者として力道山の言葉を支えにした

そして、マティ鈴木は、力道山から、ほぼ遺言と言ってもいい話を聞かされたという。

「63年12月8日、力造山が刺されましたよね。(中略)すぐさま私は、看護婦さんに力道山の状態を開きました。
 その時、彼女は“大丈夫ですよ”と答えつつ、力遺山がこんなことを呟いていたと教えてくれたんです」
力造山は、どんな言葉を呟いたのですか。
「たった、一言。『人間は、弱い……』
 私は力道山のイメージの問題もありますから、その看護婦さんにこのことは今後いっさい、他言無用ときつく口止めしましたけれどぬ」
 実に重たいですね、その言葉は。
「ええ。重たいです。その言葉は今でも私の心の奥底に深く刻まれていますね。
 それと、生前、力道山が私に『牛乳屋、お前、体が小さくて悩んでいるみたいだが、関係ねえよ。好きなんだろう? プロレスが。だったら、レスラーになれよ。人間はな、やればできねえことはねえぞ』と言ってくれましてね」

マティ鈴木は、プロレスラーとしては小柄(178センチ)ですが、日米を股にかけて19年間活躍。

引退後は、アメリカ・オレゴン州で実業家として成功した。

レスラーとして、他国で経営者として成功したのは、『人間は、弱い……』『人間、やればできねえことはねえぞ』という、相反するふたつの言葉を、いつも肝に銘じたからだとマティ鈴木は本書で語っている。

これは、どういうことだろう。

人間は無謬でも万能でもないが、努力は裏切らない、ということかもしれない。

昭和プロレスを懐古したいファンなら、読み応えのあるロングインタビューである。

写真集・門外不出!力道山 -
写真集・門外不出!力道山 –