ジャイアント馬場の“助さん、格さん”、マシオ駒と大熊元司


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ジャイアント馬場の“助さん、格さん”、マシオ駒と大熊元司
『ジャイアント馬場 王道ミュージアム』というジャイアント馬場の写真集。馬場元子さんが過去のいろいろな写真をもとに思い出話を語っている昭和プロレス的には興味深い書籍だ。その中で付き人について語るページの主人公はマシオ駒と大熊元司である。

というより、付き人の話でありながら、マシオ駒と大熊元司しか出てこない(笑)

元子さんが、付き人という存在自体に最初戸惑ったこと。

マシオ駒は仕事が良くできて几帳面、大熊元司はズボラだったが心の優しい人であったこと。

元子さんが好きだというので、炊きたての御飯でおにぎりを握ってくれ、手を真っ赤にしていたことなどのエピソードを語っている。

昭和プロレスに詳しい人なら、ジャイアント馬場の日本プロレス時代の歴代付き人を思い出すのは、そう難儀なことではないだろう。

マシオ駒、大熊元司、グレート草津、サムソン・クツワダ、佐藤昭雄である。

他団体にいったグレート草津については、語らないのも仕方ないかもしれないが、できれば語ってほしかった“逸材”である。

ただ、サムソン・クツワダと佐藤昭雄は、全日本プロレスの旗揚げに行動をともにしたのだから、触れるべき人材ではなかっただろうか。

馬場正平がアメリカに修行に出て、アメリカで通用するレスラーとして戻ってきたのは、1963年の第5回ワールドリーグ戦だった。

その時点で、ジャイアント馬場は、力道山とともに、集客力のあるレスラーであったが、格としては先輩レスラー豊登道春の次で、直接対決では芳の里淳三あたりにコロッと敗れていた。

それはともかく、主力レスラーになったジャイアント馬場に、はじめてついた付き人がマシオ駒だった。

マシオ駒は、ジャイアント馬場とは学年で3つ、プロレスキャリアで1年の違いだったが、同じ野球経験者ということから付き人になったのだろう。

また、マシオ駒は、早稲田実業出身の、カタギの社会で生活できる常識人であり、巨人という“社会人時代”を経験しているジャイアント馬場にとっては、まともな話のできる貴重な相手だったのだろう。

それと同じか、ジャイアント馬場が再びアメリカに飛び、翌年春に帰国してからかは定かでないが、大熊元司も付き人に付いた。

『喜劇駅前茶釜』(1963年、東京映画/東宝)では、ジャイアント馬場がかなり重要な役どころで出演しているが、ジャイアント馬場が退治する地元のチンピラ役として、大熊元司、星野勘太郎、吉原功、高崎山三吉(新海弘勝、魁勝司)らとともに、マシオ駒も出演。

5人目の刺客としてジャイアント馬場に向かうも、ジャイアント馬場とフランキー堺のツープラトン攻撃であえなく轟沈してしまうストーリーである。

喜劇駅前茶釜

それはともかく、マシオ駒はどちらかというと優等生で、大熊元司はそうではなかったことから、マシオ駒が、しくじりわやらかした大熊元司を殴ったという話もどこかで聞いたことがある。

どちらかというと、格さんタイプはマシオ駒の方だったのかもしれない。

ジャイアント馬場が、全日本プロレスを旗揚げする際、マシオ駒を引き取ろうと思ったところ、ドリー・ファンク・シニアが協力してくれたというのはファンなら有名な話だが、少なくともその時点では、ジャイアント馬場よりも、マシオ駒に対する信用が大きかったのではないだろうか。

昭和プロレスの歴史は、マシオ駒で動いたといっても過言ではない。


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気の毒だったサムソン・クツワダと佐藤昭雄

その後、ジャイアント馬場に付いたサムソン・クツワダは、ジャイアント馬場の信奉者である。

全日本プロレスを解雇されて何年もたってからのインタビューでも、ジャイアント馬場はリアルファイトでもいちばん強い、と言っていた。

では、そんなサムソン・クツワダが、どうして解雇されたのか

1977年に、ジャンボ鶴田をそそのかして独立を企てたからといわれているが、そもそもその伏線として、アントン・ヘーシンクの使い方を巡って、2人の間に溝ができていたという。

サムソン・クツワダは、アントン・ヘーシンクに次々勝たせて盛り上げ、最後にレスラーが勝てばいい、という考え方だったが、ジャイアント馬場は、プロレスの基礎のできていないアントン・ヘーシンクに、そのような華を持たせる気はなかったようだ。

サムソン・クツワダは、全日本プロレスの興行もかなり請け負っていて、その借金も多かったが、退職金代わりにチャラになったとは言うものの、なんかちょっと気の毒な終わり方という気がする。

佐藤昭雄は、アメリカ放り出され組である。

何度か帰国し、一時は日本テレビに依頼されて、ジャイアント馬場に代わってブッカーも努めていたが、そのへんから亀裂が入ったか、そのまま日本には定着はできず、やがてWWF入りしたことで、離れてしまった。

佐藤昭雄は、アメリカで女子レスラーのベティ・ニコライと結婚した。

ミスター桜田、ターザン後藤など、向こうで結婚したレスラーは、全日本プロレスでは歓迎されないようだ。

所属選手は自分の子供として、いちいち仲人を引き受ける馬場夫妻にとって、向こうで「一言の相談もなく」結婚されることが、愉快ではなかったのだろうと推測する。

ジャイアント馬場の“ファミリー的”な考え方には、そのような不寛容な面がある。

米沢良蔵や原軍治など、日本プロレス時代からの側近も、みなジャイアント馬場のもとを離れていった。

早逝したマシオ駒はともかく、最後までジャイアント馬場のもとを離れなかった大熊元司は、その点で稀有な存在といえるだろう。

ジャイアント馬場 王道ミュージアム -
ジャイアント馬場 王道ミュージアム –